はじめに
メニエール病やその他のめまい疾患に対してゾビラックスが極めて有効であるとの情報が、未だインターネットや各種情報誌に掲載されております。これらの疾患に対するゾビラックスの治療効果についての記述は、今はやりのEBM(根拠に基づいた医療)には則っていません。そのことについては、「メニエール病に対するゾビラックス治療に対する見解」として日本めまい平衡医学会のこのホームページ上で詳述されています。ここではこのことにはあまり触れず、ヘルペスウイルスの再活性化がメニエール病の病因としてどの程度関わる可能性があるかについて分かりやすく述べてみたいと思います。
メニエール病の種々の病因説
メニエール病の本態が内リンパ腔の水ぶくれである内リンパ水腫であることは多くの証拠より間違いのない事実であると考えられています。問題は、この内リンパ水腫がなぜ生じるかですが、内リンパ液の吸収に関わっている内リンパ嚢に問題があることが一因であろうと推測されています。実際、メニエール病の患者さんでは内リンパ嚢が発育不全で小さかったり、線維化して目詰まりが起こっているような状態であることが、病理組織や手術所見などで確認されており、内リンパ嚢の吸収障害により内リンパ液が貯留して内リンパ水腫が生じるのではないかと考えられるからです。内リンパ嚢の発育不全についは、発育にはそれぞれ個体差があり、偶然小さかったのであろうとも理解出来ますが、内リンパ嚢の線維化の原因については現在のところはっきりはしていません。このため、多くのメニエール病の原因説が提唱されているわけです。
内リンパ嚢の吸収障害の原因
上に述べたような内リンパ嚢の吸収障害が生じる理由としては、まず、先天的にそのような状態であったとも考えられます。その理由は、内リンパ嚢の発育不全例では内リンパ嚢を囲む周辺の中耳腔の発育も良くないことがあるからです。しかし、内リンパ嚢の発育不全がないメニエール病症例も多く、また、内リンパ嚢の線維化については先天性要因では十分な説明ができません。
一般的には、内リンパ嚢の発育不全、および、その線維化は幼少期における何らかの炎症が関与しているのであろうと推測されています。その最有力説は、小児期に罹患する流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)、麻疹、風疹などのウイルス疾患の内耳への不顕性感染説です。その理由は、これらの疾患で難聴を来した患者さんの少なからざる人に数十年後に後遺症としてメニエール病類似症状が発症すること、および、そのような方の内耳の病理組織でしばしばメニエール病に見られる様な内リンパ水腫が見られることなどです。もう一つの可能性のあるウイルスとしては口唇ヘルペスや水痘の原因として知られている単純ヘルペスT型や帯状疱疹ウイルスです。これらのヘルペスウイルスが原因と考えられる根拠は、内リンパ嚢組織に単純ヘルペスの存在を示唆するDNAの発現が確認できること、内耳液にそれらのウイルスの感染を示唆する抗体の上昇が認められることなどが挙げられます。メニエール病の治療にゾビラックスをはじめとする抗ウイルス剤が有効である根拠があるとすればこの点です。
ヘルペスウイルスの潜伏感染と再活性化
ヘルペスウイルスは、初期感染では皮膚や口腔粘膜を介して体細胞に感染します。侵入局所で増殖した後、ウイルスは知覚神経にそって神経節細胞に移行し、神経節細胞の細胞質内にDNAの形で潜伏感染します。疲労や外傷、免疫状態の低下など宿主のストレスによって、潜伏したヘルペスウイルスは再び活性化します。ただ、ヘルペスウイルスの再活性化は長期に続くものではなく、抗体の上昇と共に沈静化して、ウイルスは再び細胞質内に潜伏して次の再活性化の時期を待ちます。ヘルペスウイルスが再活性化している時期は比較的短く、1週間から2週間程度とされています。
メニエール病に関係があるとすれば、その潜伏部位は前庭神経節と三叉神経と交通枝を持つ内リンパ嚢が考えられます。そうだとすれば、内リンパ嚢で繰り返すヘルペスウイルスの再活性化は内リンパ嚢の線維化をもたらすかもしれませんし、前庭神経節での再活性化はめまいの原因になる可能性もあります。また、この部位でのウイルスの再活性化は、ウイルス性内耳炎を引き起こし、内リンパ水腫を形成する要因にも成りうることが考えられます。しかし、この推論はヘルペスウイルス病因説を支持する意見を意図的に選択した場合の見解で、反対の立場に立てばまったく異なる見解にも達します。要するに、ヘルペスウイルス病因説は諸説ある学説の一つにすぎず、確立したものではないと言うことです。
ヘルペスウイルスと抗ウイルス剤
抗ウイルス剤が有効なのは再活性化の時期で、潜伏感染の期間では抗ウイルス剤は無効です。上述しましたように、ヘルペスウイルスが病因であったとしても、ウイルスが再活性化して、症状が発症するまでには数日を要すると考えられます。よって、発症してから抗ウイルス剤を投与しても、既にヘルペスウイルスは沈静化の方向にあることが多いと考えられます。そうしますと、抗ウイルス剤の効果はかなり限定されたものになることが予測されます。また、内リンパ嚢の線維化のような陳旧性変化については抗ウイルス剤ではさしたる効果を期待することはできません。さらに重要なことは、仮に再活性化を阻止できたとしても、潜伏したウイルスのその後の再活性化阻止については抗ウイルス剤はまったく無効であることです。メニエール病は反復するめまいと難聴が特徴ですが、将来おこるであろうと予想される再活性化を抗ウイルス剤が阻止できないことは、メニエール病の発症にはヘルペスウイルス関与しているとしても、メニエール病の治療薬としては大きな弱点を持っていることになります。
めまい治療薬としての抗ウイルス剤
インターネット上に流れている情報によれば、ゾビラックスの効果はメニエール病のみならず良性発作性頭位めまいや前庭神経炎など、多くのめまい疾患でも有効であるように書かれています。さながら、ゾビラックスはめまい万能薬のような感を呈していますが、有効性の機序については触れられていません。ただ、良性発作性頭位めまいはたまたま半規管に耳石の残渣が嵌頓したために起こるめまいで、この残渣を半規管より出せば直ることがよく知られています。又、前庭神経炎は激しいめまいで発症しますが、一週間程度で改善、その後徐々にふらつきも軽快し、反復することはありません。メニエール病は未だ未解明の所も多くありますが、病態や経過がよく分かっているこれらの疾患でゾビラックスの有効性を主張する根拠については私は到底推測することができません。
メニエール病に関しては、近年、内リンパ水腫の存在とその程度をMRI画像によって確認することが出来るようになりました。この成果により、メニエール病の病態生理の理解が大きく進むことが期待できます。多くの疑問が晴れて、メニエール病の治療に関しても正しい知識が行き渡ることが望まれます。